コラム
私の強みと弱みと、工夫したこと【コラム】
はじめに
このたび、ニューロダイバーシティについてのコラムを担当する、長谷川祐子と申します。 このコラムでは、私自身が幼少期から学生時代を経て社会人になり、企業における障がい者の雇用問題の当事者になり、それを元にライターとして記事を書くようになるなど、発達障がいと社会のつながりについて感じてきたことをつづっていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
「私の強みと弱みと、工夫したこと」
私はいま、フリーランスのライター・翻訳者・ジャーナリストとして、自分から動いて情報を取り、分析し、文章に仕上げ、発信する仕事をするようになりました。ですが、私がこうした活動をするようになったのは35歳からでした。20代の頃は書く力に気付けず、コミュニケーションにコンプレックスがありました。今のように活動するようになるとは想像もつかなかったです。私がどのようにしてこうなっていったのか。
私は1981年生まれ。小・中・高校はすべて通常クラスに通っていました。大学は外国語学部でした。
私が大学を卒業したのは2005年で、就職氷河期の終わり頃でした。私はすぐには就職には至らず、卒業してから3年経った2008年に初めて正規の仕事に就きました。
大学新卒で就職活動をした時には、新聞社は受けていません。新聞社の入社試験には面接とグループディスカッションがあり、当時の私のコミュニケーション能力では受からないだろう、と思っていました。ただ、大学受験で国公立に合格した経験もあり、知識を蓄積させる試験勉強には自信がありました。そこで大学卒業後しばらく経ってから、公務員試験を受けました。一般教養や法律や行政の科目、論文の科目は、勉強すれば点数を取れるようになりました。公務員試験も、私が受験した頃には既に面接重視の傾向が強まっており、面接では不自然に見られない受け答えをするのに苦労しましたが。それでもなんとか官庁の試験を通って、初めて正規の仕事に就くことになりました。
官庁での調査業務では、外部の人と対面で会って話を聞くことが多く、これは当時の私にとっては負荷が大きなものでした。官庁に7年間在籍した期間で調査業務に就いたのは最初の1年だけで、後は内勤で庶務や補助的な業務でした。官庁に古くからある、上の意向を汲むといった慣習になじんで仕事を任されるようになるのも、難しいことでした。私の弱点が悪目立ちすることになり、強みを活かせることにならなかったのは残念でした。
それを経て、個人で翻訳の勉強をしたり小説やブログを書いたりするようになってから、自分の強みを活かせるのは今のような活動だと自覚するようになりました。
私は、文章を書いていると、自分の考えが整理されていくような感覚になります。口頭ではうまく伝えられなかったことも、書くことによって「伝えられた」と実感できます。また、他人からの言葉も、文字化されることでより自分の中に入っていくような感覚になるのです。
ただ翻訳の仕事は、複雑な専門的知識が要求される文章を訳すことが多く、背景知識の習得を必要とするため、プロとして通用するレベルになるにはかなりの時間がかかってしまうという難しさがありました。外資系通信社で経済ニュースの翻訳の仕事を得たのは大きな喜びでしたが、結局は続けていけませんでした。
人との関わりについて
ニュース翻訳者のキャリアを突然断たれたことで生きる希望を失いかけましたが、私には翻訳以外にも、色々な場所に出かけて人に会って話を聞いたりする力がありました。
ライターやジャーナリストは、ただ「文章を書くのが好き」というだけでは務まりません。様々な人に会って話を聞くというプロセスがあります。
私は、人と関わること自体は嫌ではありませんでした。私は、他人に対して積極的に、しかし奇異な形でコミュニケーションを取ろうとする「積極奇異型」と言われてきました。私はセミナーに行っても真っ先に一番前の席を取って、どんどん質問します。自分よりも地位のある人にも臆せず迫っていきます。時に情熱的でアグレッシブにもなります。ただ話し始めると、一方的な話になってしまうことが多くありました。そうしたことから、「空気が読めない」と言われる、友達と言える友達が作れない、という困りごとを抱えるようになりました。口頭でのコミュニケーションには苦手意識を持つようになりました。
そこで、発達障がいがわかった大学生の頃から、ソーシャルスキルトレーニングを通して、相手をおもんぱかる、相手の話を否定しない、相手の話をさえぎらない、一歩引いてみる、といったことを意識して心掛けるようにしていきました。社会人になってからは、官庁の調査業務で、ベテラン職員から人間関係づくりのあり方を色々と教わりました。相手のことを事前によく調べ、的確な質問や立ち入った質問ができるようにすること。そうしていくうちに、決まったテーマについて質問して話を聞き出すのが目的の会話では、相手のことをよく調べ、相手との接点や共通の話題を見つけるようにすれば、雑談は苦手でもかなりの部分をカバーできるということもわかってきました。それらは結局のところ官庁の仕事では限定的にしか活きることにはなりませんでしたが、のちにジャーナリストとして取材対象者との協力関係を築いて情報を聞き出していくうえで役立っています。
首都圏では特に、発達障がいの当事者会が立ち上げられたり、当事者向けのセミナーが開かれたりしています。インターネットやSNSを通してそうした情報を得られるようになりました。私もこうした場に参加したことは数え切れません。同じような困りごとを抱える人と一緒に学び、一緒に語り合い、つながれたことで、心強く感じられるようになりました。
コロナ以降の2020年から、首都圏から全国にリモートワークが広がりました。私もその流れに乗って、2021年6月から神戸の実家に戻って過ごしています。リモートワークでは、チャットツールを使ってのテキストメッセージを多用したコミュニケーション形式になりました。私に備わっていた文章力や調査力が加わることで、苦手さをカバーできるようになりました。不思議なことに、3人以上の会話になった時にも、落ち着いてコミュニケーションすることができました。オンラインミーティングでは、障害の有無問わず、画面の向こうの相手と目線を合わせることやジェスチャーを察知することがリアルでの対話より難しい。人と目を合わせたり、察したりすることが苦手、言葉の裏の意味を理解しにくい、という私の弱みが、オンラインミーティングでは悪目立ちしにくくなり、問題視されにくくなりました。ですので、自信を持って、離れた相手とコミュニケーションし、人間関係を築いていくことができるようになっていきました。コロナは災厄でしたが、リモートワーク化は私にとっては良い環境調整になりました。
強みを伸ばすこと
私の強みには、物心ついた頃から備わっていた得意なことをそのまま伸ばした部分と、年齢とともに工夫を重ねることで身についていった部分があります。文章力やとことんはまりこむ力は前者、人とのコミュニケーションを築く力は後者でした。年齢とともに経験を重ねるにつれて、20代の頃にできなかったこともできるようになっていきました。一般的には発達障がいの人には難しいとされている、他人との関わりを持つ活動も、自助努力による訓練と環境調整によって、不得意な部分をかなりカバーしながらできるようになりました。
しかしながらもちろん、私がもっと複雑な家庭環境や人間関係に身を置いていたりして、ストレスにより二次障害がもっと悪化して心の平穏や向上心を保つのが難しくなっていたら、たとえそうしたくてもそうすることはできなかったでしょう。あるいは、そうしたいという気持ちさえ持てなくなっていたかもしれません。育つ環境はとても大切であると考えます。
発達障がいのある子どもが、二次障害を抱えることなく、得意なことをそのまま伸ばし、不得意なことはカバーしながら成長していけるために、教育や福祉にやるべきことは多くあるでしょう。